なぜ連結部が開いてるのか?


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001 2017/10/14(土) 19:22:52 ID:uv3oz4xaA6
これは、たぶん昭和40年代だと思われるが、
乗客が乗っているのにも関わらず、なぜ開放しているのだろう?

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002 2017/10/14(土) 19:31:21 ID:dt0aDuanWU
暑いから    

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003 2017/10/14(土) 19:38:05 ID:LaNwcLW52c
>>2 その通り。

 全面ドアが開いているからと言って、乗客が運転台や 最前端部に出入りできる訳では無い。

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004 2017/10/14(土) 19:43:26 ID:m01AfU2EKs
筑前高宮駅って書いていある

1925年(大正14年)6月15日 北九州鉄道の新柳町駅として開業。
1937年(昭和12年)10月1日 国有化により筑肥線となり、筑前高宮駅と改称。
1983年(昭和58年)3月22日 筑肥線の博多〜姪浜間廃線に伴い廃駅となる。

だって

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005 2017/10/14(土) 20:46:27 ID:v2VohNe.ns
[YouTubeで再生]
高崎線が客車列車の時代なんて今のインド並みだもん

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007 2017/10/15(日) 05:54:04 ID:CyaTeP6zpI
この時代はまだエアコンついてなかったからじゃない?
車内の風が良く通るような、よく抜けるような通気口だと思う。
服装見る限り夏だし。

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008 2017/10/15(日) 07:30:12 ID:68WGCjKfno
ランニング姿の山下清が乗っているね

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009 2017/10/15(日) 08:26:04 ID:H9X6g7O1/k
この部分は運転台で、開口部のドアは開いてるがその奥の客室とのドアはちゃんとしまっているんだよ。

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010 2017/10/15(日) 08:28:35 ID:H9X6g7O1/k
補足
客室との境のドア

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011 2017/10/15(日) 11:44:21 ID:68WGCjKfno
>>9
架線が見えないから、もしかして気動車と客車の連結待ちじゃないかな?

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012 2017/10/15(日) 15:45:23 ID:0OA93MhwU6
や〜いい写真だな〜

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013 2017/10/18(水) 20:42:52 ID:4XuQ6qNMQ2
真ん中の通路を開放することによって
空気抵抗を減らし、電力の節約になったんだよ

真面目な話、連結前後のどちらかでしょ
昔の電車って、乗務員室も通路にして他の車両に移動できたよねぇ
今電車乗らないので知らんがw

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014 2017/10/20(金) 13:25:46 ID:YetlZPm6V2
EF75とか、貫通扉つきの機関車なんかでも真夏に開けっぱなしで走る姿をよく見かけたもんさ。

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015 2017/10/22(日) 23:48:14 ID:cbYN8QrLCU
幼少期の微かな記憶、昭和50年代の大阪で連結幌が無い列車に乗って
ビビりながら連結を渡った記憶が…
本当の記憶なのか思い違いの記憶なのか定かでない

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016 2017/10/23(月) 22:20:40 ID:1EvDFnZuoE
>>15
 福知山線の客車列車じゃないかな?。

 自分も子供の頃に ドアが開いたままでも走る列車に乗ってみたくて、その客車の連結部ドアも無い
最後尾車両に乗った事がありますが、どこかの駅で増結した時に 貫通幌は接合させないで、一本鎖を
張ったままで 発車しました。
 大阪へ近付くにつれて 乗客が増えると、客が勝手に鎖を外して 移動してましたよ。

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017 2017/11/29(水) 14:38:41 ID:7IWcfpLNks
SL時代は連結部は幌があるが乗降扉は乗客が自由に開ける事が出来てた。
それで落ちた人もいなかった。福知山線も遅くまで昔ながらの客車が走ってた路線。
大阪から武田尾までは川沿い走る紅葉路線やった。

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018 2017/11/30(木) 12:29:10 ID:OGtCziZTFs
夏は開けて、冬は閉めて 

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019 2018/01/05(金) 20:46:11 ID:9viERdNOW2
>>13
これ、電車じゃないよ…と一応マジレスしてみる(^^);
(鉄道板に来る人がまさかキハ10系知らんってこたぁないだろうに…)

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020 2018/01/05(金) 20:55:39 ID:9viERdNOW2
冷房がまだ一握りの特急用か優等車にしかなかった頃、一般型車輛は夏場涼を取るには窓はおろかドアさえ開けっ放して走ってたものだった。
流石に電車・気動車は自動ドアだったが客レはブルトレ用20系を除けば悉く自由ドアだった。
(尤も、気動車の中でも極一部、そう、キハ08・キハ09なんてのは非自動ドアだったよ。だってタネ車がオハ62だもん)
気動車なら編成最後尾のドア開けて風入れて…なんてこともやってたし、新性能電車ですら乗務員室の扉開けっ放しで走ってることもあった。
まして客レにいたっては…最後尾にドア自体無いモノなんてゴロゴロいたよ。
呉線でヘッドマーク付けてC62やC59に牽かれて走ってた急行[安芸]も、最末期頃編成両端オハネフ12だったけど、デッキ側には貫通路にドアがなく鎖だけだった。
ましてオハフやスハフなど車掌室と反対側には鎖すらなかったよ。
それでもあの鎖が1本あるだけで安心感がまるで違ったものだった。
と、あの時代をリアル体験してるオジ鉄の昔話でした。ちゃんちゃん(^^)/

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021 2018/01/07(日) 15:56:08 ID:tzjevH0qU6
更に言えば、あの時代はこんな光景当たり前だったんだよ。
生憎写真や動画がないから当時を思い出して描いた落書きをgif動画にしてみたんだけどね(^^);

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022 2018/01/15(月) 11:15:03 ID:DK.lD8tNq6
>>17
>>SL時代は連結部は幌があるが乗降扉は乗客が自由に開ける事が出来てた。
>>それで落ちた人もいなかった。

いや実際問題落ちて死んだ人はいたよ。箏曲家の宮城道雄も其れが原因で亡くなった。
ただ当時は技術的な問題もあって特急や長距離列車でも自動ドアじゃない車輛は当たり前に走っていたし一般にも
[そんなもんだ。落ちる事があるから気をつけよう]
って認識されていたから落ちたからって直ちに鉄道事業者が責められるってほどでもなかったのよ。
今じゃ信じられないとは思うけどね(^^);

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023 2018/01/21(日) 18:50:38 ID:p19ioz/zZ.
ちんちん(^^)/

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024 2018/02/13(火) 00:23:17 ID:W9.SIgHU8Q
>>20で思ったけど、子供の頃なんとなく聞いていた八代亜紀の『愛の終着駅』での“寒い‾夜汽車で...”てあったんですね。

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025 2018/02/13(火) 13:15:19 ID:.cqkdB8CgI
冬らしく、かつて真冬でもデッキの扉が開けっぱなしの旧客編成が多かった理由を考えてみたい。

荒れた運転も多かった国鉄末期、旧客の発車時にはとんでもないショックが来ることも普通で
凍ってツルツルのデッキで、かつ雪が詰まって重いドアなんかに手こずってる時に
ガッシャーン! が来た場合、滑って振り落とされる恐ろしさがあった。

特に当時は、無人駅はおろか有人駅でも発車ベルの鳴らし忘れが珍しくないほど駅員もタルんでいた。
そんないつ発車ショックが来るか判らない中では、さっさと車内に乗り込むのが一番の安全である。

それと蒸気にせよ電暖にせよ、旧客の暖房は案外強力で、顔がほてるほどだったから
客室側の扉さえ閉めてあれば外のデッキ扉のことはあまり気にならなかったと思う。

と言う訳で、>>20さん紹介の「寒い夜汽車」の経験って私にはない。
確かに暖房入った直後の始発列車は寒かったけど、夜行は十分温まってから入線してくるものだったからw

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026 2018/02/13(火) 13:17:46 ID:.cqkdB8CgI
>>20>>24さん
失礼しました。

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027 2018/04/13(金) 08:39:14 ID:vcssXwI9.c
>>25
電気暖房は経験ないけれど蒸気暖房ってのは案外曲者で編成の前の方の客車は確かにCoatもJacketも脱いでワイシャツでも過ごせる位効くけれど
編成の後ろの方だと全然効かなかったりしたものだったよ(^^);
元国鉄〜JRの動力車乗務員だった宇田賢吉氏の回顧録によると、冬場のセノハチは大変だったらしい。下りは上りのそれも急行列車は一等寝台や特別二等
などの優等車が編成後部にあり暖房を効かせるにはかなり蒸気を送らなきゃならないがご存じのとおりそこは山陽路きっての難所。いくら後補機D52のAssistが
あるとはいえ、本務機C62・C59も全力出さないと登れないから暖房用の蒸気の余裕がない!しかし優等車に乗ってる客は上流階級で怒らせたらヤバい!
車掌にも突き上げられ往生こいたそうな…
線形改良されていない頃の東北本線や北陸本線・羽越本線などの峠道も当時は大変だっただろうね…

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028 2018/06/15(金) 22:29:19 ID:g7F0rC/R6o
>>22
トロッコ少年、馬場隆くんの転落事故ってのも有ったが、若い鉄ちゃんは知らんかもな。

当時、この事故のせいで東北筋の旧客置き換えが進んだと苦々しく語る旧客ファンもいたけど
60.3の東北急行壊滅で余った455系と12系に順当に置きかえられただけで
俺はこの事故とは無関係だった気がするがね。

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029 2018/06/16(土) 03:56:00 ID:xa0Izvzwyk
>>25
>荒れた運転も多かった国鉄末期、旧客の発車時にはとんでもないショックが来ることも普通で

いや、それ自動連結器なら当たり前で、だから「密着自動連結器」やら「密着連結器」が開発された。
国鉄が無くなるなんて微塵も考えない頃から、客車列車は発車時に「ガックン!」って揺れてたよ。

遅レスだけど。

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030 2018/06/20(水) 07:19:48 ID:58Aq5AllP.
>>25
遅レススマソ…m(__)m
>冬らしく、かつて真冬でもデッキの扉が開けっぱなしの旧客編成が多かった理由を考えてみたい。
あれは元々当時の技術水準では自動化出来なかったから。てゆーか、電車・気動車編成なら編成内に動力源もあるしドアの開閉を自動化するのは不可能じゃない。
客車でも固定編成の20系以降のブルトレ組やユニット編成の12系以降なら編成内に電源があるし50系客車もMR管からエア供給でドアを自動化できたが、
在来一般型客車の時代には自動ドアとする為の電源・動力源が無かったから。自転車のそれの親玉程度の車軸発電機とバッテリーではせいぜい車室の照明とやっと
こさ扇風機程度。食堂車のコンロなんてオシ17ですら石炭コンロだったし、冷房装置も各車にディーゼル発電機を乗っけてた位で優等車輌にしかなかった。
(黎明期には冷房装置も車軸からプーリーベルトを介して駆動させていた位だから停車駅の少ない優等列車ならまだしも、各駅停車用には不向きだった)

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