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>>1の続き)
計画では、新大阪‐岡山間は保線作業などの関係で、博多、東京方面のいずれかの線路を使う単線運転を想定。
この区間は東京と博多の中間に位置するため、一方が通るのをやり過ごす待避場所として「4〜5ケ所」
(山陽新幹線新大阪岡山間建設工事誌)の駅が必要となり、兵庫県内に集中的に設置される一因となったらしい。
計画の前提だった東京‐博多間は75年3月に全線開通。しかし、鉄道ジャーナリストの梅原淳さん(46)は
「計画は70年代半ばには難しくなっていた」と指摘する。新幹線の設備にトラブルが続発し、国鉄は改善に追われる一方、
ストライキや相次ぐ値上げによる客離れなどが進んだためだ。
新幹線の騒音も社会問題化。75年7月、環境庁(当時)が午前6時〜深夜0時という運行時間を前提とした
環境基準を定めたため、計画は事実上、不可能となる。
80年ごろ、午前0〜6時は新大阪‐岡山間で停車させ、時間待ちする代替案も出たが、梅原さんは
「国鉄改革が叫ばれる中でのアドバルーン的な要素が強い」とする。
87年の国鉄民営化で計画は姿を消した。その後、新幹線は各地に路線を広げたが、
現在、夜行新幹線の具体的な計画はないという。
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