満州鉄道/樺太鉄道


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001 2017/02/24(金) 03:53:27 ID:387WBM2eLI
戦後失なった日本の鉄道について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%...

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002 2017/02/24(金) 03:56:51 ID:387WBM2eLI
中国に現存する幻の超特急「あじあ」の返還かなわず…「満鉄会」が2016年3月解散へ
http://www.sankei.com/premium/news/151228/prm1512280...

旧満鉄系優等車解説
http://1st.geocities.jp/hokuman_hailaer1/tentetsuki/ch...

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003 2017/02/24(金) 04:00:40 ID:387WBM2eLI
満州国国有鉄道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%...

「国有鉄道」と銘打っていたものの、成立と同時に運営や建設をすべて南満州鉄道に委託したほか、関東軍の介入をたびたび受けていた。

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004 2017/02/25(土) 04:31:35 ID:8h0sFkN2mc
樺太に渡った9600やD50は、どうなったんだろうか?

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005 2017/02/25(土) 06:48:00 ID:YxEQm.0M.Y
鉄道利権って話としてはわかるけど、感覚的になんだよそれって子供の頃思ったわ。

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006 2017/03/11(土) 03:25:39 ID:WD8lIxgM1Q
要するに「ポッポや」というのは…アレか

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007 2017/03/11(土) 03:45:49 ID:WD8lIxgM1Q
【九四式装甲列車】
>大日本帝国陸軍の装甲列車で、南満州鉄道株式会社にて製作されました。
火力を正面に集中できるように火砲車が配置され、走行射撃ができるように設計されています。
また装甲列車としては珍しく歩兵車を廃止して単独での戦闘に重点を置いています。
自慢の戦闘力で中国戦線で暴れまわったそうです。
(具体的には中国軍の占領する駅に突入して奪取するとか)

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008 2017/06/02(金) 06:51:17 ID:xy.D9pk692
満鉄って、ロシアの敷いたレールを分捕ったの?

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009 2017/06/02(金) 16:58:15 ID:MfMQp9dGVE
満鉄は誇り高き大日本帝国が国の威信をかけて作ったものです。
豪華な特急列車、流麗な国際的にもトップに立つであろうデザインの機関車。
ああ、あれは夢と消えたのか。
ソ連と協定なんかを結んで、満州を何とか出来なかったのか。この際、中国は関係ない。

あの当時の日本政府、要するに程度の低い連中が牛耳っていた、まあぶっちゃけ政策の中枢部を握っていた長州(山口県)や薩摩(鹿児島県)のお偉いさん、
そんな薩長の田舎者が政治の実権を握っていたのが間違いのもとだ。攘夷攘夷と叫びながら明治維新が成ると急に西欧にスリ寄る、
ああ、満州国も夢と消えたが、第二次大戦で日本国の威信も消えてなくなった。
みんな山口県人や鹿児島県人、少しは高知県人や佐賀県人もいるが、そいつらのせいだ。
みんな、これらの県人が日本国を滅ぼしたということを、忘れるで無いぞ!!

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010 2017/06/02(金) 19:02:25 ID:8sf3KoHffk
西欧にすり寄ったのは生き残るため。 どう言い訳しても当時、文明はかの地が優れていたのは事実。

それができなかった半島と清は滅びて植民地になり下がった。
日本の民はある程度民衆レベルで読み書きそろばんができたの異文化と技術を素早く取り込めた。
いくつも国が変わる連中と違いお天子様がずっと国を統治する形式を保った。
心に拠り所のある民衆は強い。

長州とクマソが悪いというがどこがやってもあの程度。
維新の勢いでよく引っ張った。 慢心と過信が敗戦の主要因。
当時の日本はよく頑張ったが資源と物量と権謀実数の前に敗れ去った。

満州鉄道はそんな底力を示した大事業。
日本人で本当によかった。

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011 2017/06/02(金) 22:26:40 ID:W/hv92f9CQ
 私の伯父は 県工卒業後に満鉄へ就職し、現地応召で満州軍ではなく日本陸軍の
兵士となり、本来の職場でもあった鉄道部隊に配属されたそうです。

 終戦間際にソ連軍の攻撃に遭い 応戦する弾薬も尽きてしまい、半ば腹を括って
貨車に積み上げた 弾除けの枕木にもたれて ウォッカを飲んでいたと言います。

 その枕木さえも 次第に敵の銃弾が貫通するようになると、死を覚悟してか
酒のせいか 眠り込んでしまったそうです。

 ところが それが幸いして、貨車の上の伯父は 構内に進入して来た ソ連兵に
気付かれず、助かったそうです。

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012 2017/06/03(土) 04:05:54 ID:jIm.6Zhai6
>>11
で、危機一髪だった伯父様、どうやって帰国なされたのですか?
将校だった私の伯父二人は、満州で亡くなっています。
軍刀として持って行った、実家の刀二振りは行方不明です。

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013 2017/06/04(日) 00:00:04 ID:HLJp201uxM
>>12 まずは 英霊となられた伯父様 御二方に感謝と哀悼を捧げます。

 ソ連軍は駅を占拠するのではなく、敗走する日本軍を追走して行ったので
伯父等数人が、後方に取り残された形となったそうです。
 そして 間もなく終戦を迎え、本来 職業軍人ではなかった伯父は 現地除隊
された後、鉄道技術者として強制徴用され、鉄道復旧の為に朝鮮に入った折に
支那監視兵の隙を見て米軍へ投降し、帰国できたのだそうです。

 余談ですが、もう一人の伯父(長男)は 関東軍将校で 支那・ロシア語の通訳
が出来た為、シベリアへ移送される途中に脱走し、両国人に扮しつつ 朝鮮へ
逃れ、無事帰国しました。

 幼い頃から 父に幾度となく聞かされた話です。


 

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014 2017/06/04(日) 04:52:29 ID:GKvT7ELqVU
>>13
>>12です。
ありがとうございます。
お書きになられた文章を拝読させていただくと、なぜか涙が出ました。
伯父様、ご無事にご帰還なされて何よりでした。

ご返答、本当にありがとうございました。

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015 2017/06/07(水) 20:04:37 ID:Vy66nfW4Uc
そもそもなぜロシア人がウラル山脈を越えて針葉樹林と湿地状の草原を進出してきたのか
→17世紀?あたりにクロテンが英独で大ブーム勃発

じゃぁなぜ樺太や北海道までは至らなかったのか
→エゾクロテンの毛皮品質は低かったから

狩りは専ら原住民にさせてうまく領土化に成功したらしい

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016 2017/06/07(水) 20:46:35 ID:Vy66nfW4Uc
シベリア鉄道建設をロシア帝国は1891年2月に正式決定し、5月よりその建設に着工した。
ロシアは、日清戦争(1894年7月 - 1895年3月)直後の日本による遼東半島の領有を三国干渉(1895年4月23日)によって阻止しており、その見返りとして清国の李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功していた(露清密約、1896年6月3日)。
その中でロシアは、建設困難なアムール川沿いの路線ではなく、短絡線としてチタから満洲北部を横断しウラジオストクに至る鉄道の敷設権を獲得し、1896年12月、露清銀行によって「中国東方鉄道株式会社」(ロシア語略称:КВЖД)、清朝側の名称では「大清東省鉄路」という鉄道会社が設立された。
経営の最高機関は、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに置かれた理事会で、ロシア大蔵省が理事を任命した。
このように、表向きは露清合弁であったが、ロシアの発言権が強く、清朝は経営に直接関与できなかった。

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017 2017/06/07(水) 20:51:16 ID:Vy66nfW4Uc
日本への一部譲渡
最後の大興安嶺トンネルが完成し、シベリア鉄道と完全に連結したのは1904年2月、日露戦争勃発直前であった。
その後日露戦争(1904年2月 - 1905年9月)が勃発し、日露戦争でロシアが敗北した後の1905年9月5日、ポーツマス条約により長春以南の南満洲支線は日本に譲渡され南満州鉄道(満鉄)となった。
1911年、辛亥革命によって中華民国が成立しても、ロシアによる東清鉄道の利権は継承された。

満洲国への売却
1932年に満洲国が成立すると、ソ連は満洲国を承認しなかったものの、東清鉄道は事実上の満洲国とソ連の合弁となり、1933年には満洲国交通部がその名称を北満鉄路に変更した。日本はソ連との衝突を避けるため鉄道の売却を提案したが両者の間で長らく価格で折り合いが付かず、ようやく1935年3月になってソ連は満州国と北満鉄道讓渡協定を結んで北満鉄路全線の利権を満洲国に売却し、満洲から撤退した。
こうして旧・東清鉄道は満洲国有鉄道となり、経営は満鉄に委託された。また、軌間も1937年まではロシア建設時の広軌(1,520mm)であったが、満鉄に合わせて標準軌(1,435mm)に改軌された。

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018 2017/06/07(水) 21:04:50 ID:Vy66nfW4Uc
しかし1922年頃から始まった「利権回収運動」により、それまで親日的であった現地政権・奉天軍閥が離反、
日本に対抗し並行線の建設に着手し、満鉄を兵糧攻めとした。日本の権益確保を目指す関東軍は、1928年に張作霖爆殺事件を引き起こし恫喝するが、ますます奉天軍閥の態度が強硬となったため、1931年に奉天軍閥に冤罪をかぶせて満州事変を引き起こし、奉天軍閥を潰滅させた。
その後空白となった満州の処理として傀儡政権樹立が行われ、1932年3月1日に満州国が建国。満州の政権として奉天軍閥の権益を継承することとなった。

中国長春鉄路
1945年8月、ソ連が対日参戦し満洲に侵攻すると、北満鉄路および南満洲鉄道を接収し、これらを併せて中国長春鉄路とした。
また同月、ソ連は蒋介石政権と中ソ友好同盟条約を結び、同鉄道を30年間共同使用することを認めさせた。
しかし1949年共産党政権が成立すると、その翌年に同盟条約を改訂し(中ソ友好同盟相互援助条約)、
その付属協定「長春鉄道・旅順・大連協定」により、長春鉄道の中国側への返還が決定された。

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019 2017/06/08(木) 23:19:32 ID:Vy66nfW4Uc
>>15補足
最初にロシアからシベリアに侵入したのは正規ロシア軍ではなく、ウラルの西側のカマ川やチュソヴァヤ川流域を領地としていた
ストロガノフという商人の私兵である。
当時すでに枯渇していたウラル以西の毛皮資源に替わる、豊富な毛皮資源を求めたためだった。
そしてシビル・ハン国が1572年に毛皮の朝貢を拒否したことでロシア・ツァーリ国のシベリア侵攻は決定的となった。
この時のロシア人私兵はコサックと呼ばれ、これらを率いたコサックの首長イェルマークによりシベリア征服が進められた。
イェルマークは1578年10月に東進を開始し、シビル・ハン国を攻撃、イェルマーク自身は途中戦死するものの、ついに1598年シビル・ハン国は滅亡した。その後ロシア人は東進を続け、1636年にはコサックのイヴァン・モスクヴィチンがオホーツク海へ至り、ロシア人はシベリア横断を達成した。これ以後シベリアはロシア人の植民地となった。

ロシア人が短期間で太平洋にまで至ることができた理由には、
・シベリアの大河の支流から支流を伝うことで大きな地形的障害なく東へ向かうことができたこと、
・途中にロシア人に激しく抵抗して前進を押しとどめる強力な国家や民族がなかったこと、
・毛皮交易による利益に対してロシア人たちが貪欲だったことが大きい。

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020 2017/06/12(月) 11:22:54 ID:BlojPRK3ik
今使っている、日本が改軌した旧満鉄の路線の軌道は標準軌ですか?

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021 2017/06/12(月) 21:23:58 ID:zPaSzScpO.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8C%E9%96%93%E3%81%...

たぶんそうじゃね チャンコロはそんな些細な次元に拘る余裕無いでしょ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%...

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