台湾の平渓鉄道


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001 2016/05/02(月) 23:07:24 ID:EQJSvdgIyI
ノスタルジックでいいですよね。

https://www.youtube.com/watch?v=BOeZzXL2TW8

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003 2016/05/03(火) 04:18:23 ID:Jo4CoY9mbI
日本国内で、こういう混沌とした 鉄道沿線って見た事も無いので、「ノスタルジック」には感じないなぁ。
日本では有り得ない「異国感」に溢れている、とは感じるけど。

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004 2016/05/03(火) 05:37:55 ID:4Zt1Kqra.s
昔の都電とか結構 ひとんちの裏庭通る的な感じ

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005 2016/05/03(火) 12:20:18 ID:tjWuaJ2SFI
江ノ電とか都電も場所に寄ってはこんなところ走ってるよ。
JR鎌倉駅から江の島まで続いてるのが乗れるから行ってごらん。
ちなみに二駅東京寄りの大船駅ではモノレールに乗れる。

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006 2016/05/03(火) 14:51:41 ID:rlKelJyjiY
路面電車と一般鉄道の違いが分からないおとこの人って・・・。

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007 2016/05/03(火) 20:04:20 ID:yKVNLFE72w
平渓鉄道は戦前に日本が作った鉄道で、駅舎や沿線の街並みは
昭和初期の日本そのもの。昭和50年代には失われた日本の鉄道風景があると
当時の鉄道ファンが日本から大勢押し寄せたそうだ。
だから日本人に取ってもノスタルジックな風景なんだよ。

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008 2016/05/03(火) 21:24:22 ID:xFGkJN/.9Q
レールの幅が国鉄並に狭い。

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009 2016/05/03(火) 21:28:04 ID:yKVNLFE72w
軌道の幅は日本の鉄道と一緒。(新幹線を除く)

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010 2016/05/03(火) 21:28:27 ID:FL46qCGczU
山間部は中央線みたいな感じなんだが………。

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012 2016/05/06(金) 02:18:10 ID:SHzBQjS4.k
車両も日本製とのことであるが、何という車両なのか、また今も日本のどこかで走っている車両なのか??

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013 2016/05/06(金) 05:16:53 ID:QGPI02mtw2
DR3100形?複線の架線柱なのに柱が片方しか無いけど強度的には大丈夫なの?

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014 2016/05/08(日) 13:36:33 ID:3cB18eYYaA
>軌道の幅は日本の鉄道と一緒。(新幹線を除く)

京成や阪急なんかと同じなのか?

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015 2016/05/24(火) 21:24:21 ID:LR4SbEbFM.
この前乗った

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016 2016/05/26(木) 21:40:24 ID:CtBflKVGw.
最後にタブレットでてきた・・・
あれ使ってれば信楽高原鐵道も事故にならなかったなぁ。

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017 2016/05/29(日) 19:55:14 ID:???
[YouTubeで再生]
ちょっと通りますよ

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018 2017/06/06(火) 20:00:39 ID:vK9VXhZsbA
運転席に入れてもらえる裏技あるの?

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019 2017/06/09(金) 01:00:31 ID:FHZZESu4UU
平渓線(北東部の宜蘭線から内陸部へ伸びる支線。三貂嶺駅から菁桐駅に至る)
もともとは、日本統治時代の台湾において屈指の炭田といわれた菁桐坑の開発のため、台陽鉱業が敷設した専用鉄道が前身であり、
1922年(大正11年)7月に開業した。しかし、トンネルの一部の地盤が悪く、ルートの一部を変更している。
その結果、三貂嶺 - 菁桐坑間が完成したのは、1923年(大正12年)1月15日のことであった。
その後、1929年(昭和4年)7月10日をもって台湾総督府に買収され、同年10月1日から同鉄道部(台湾総督府鉄道)の平渓線として営業を開始した。

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020 2017/06/09(金) 01:07:21 ID:FHZZESu4UU
台湾の歴史上で最初に鉄道の施設を決めたのは、清朝統治時代末期に台湾巡撫として台湾に赴任していた劉銘伝である。
軌間は1067mm(狭軌)を採用し、1887年(光緒13年)に基隆から台北を経て新竹に至る区間の工事が始まった。
路線は先ず1888年7月に初代台北駅(大稲?、現台北市大同区) - 錫口(現台北市松山区)間が先行開通し、清初の鉄道トンネルとなる獅球嶺トンネルの完工(1890年8月)を経て、1891年(光緒17年)10月に台北駅 - 基隆駅間の28.6kmが開通した。
当初、1日1往復の運行(旧正月運休)で、所要時間は1時間強であったと言う。その後、路線は1893年10月(光緒19年)に新竹駅まで延長され、総延長は約100kmとなった。
清朝当局は線路の終着点を台南にまで延ばす構想を持っており、新竹駅から崎頂付近まで線路の基盤工事を行っていた。
だが、日清戦争以降の混乱で建設はとん挫し、台湾総督府が設置されるまで本格的な鉄道建設は行なわれなかった。

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021 2017/06/09(金) 01:14:09 ID:FHZZESu4UU
その後、日清戦争を経て台湾が日本統治下に入ると、日本は台湾の経営のためには鉄道整備が欠かせないと考え、1895年(明治28年)6月10日に「台湾鉄道線区司令部」を、8月25日には「臨時台湾鉄道隊」を設置して既存の鉄道の管理・輸送を担当させ
台湾統治の基礎が固まると、1899年(明治32年)には「総督府鉄道部官制」が公布されて鉄道が総督府鉄道部の管轄となり、それまで軍用中心であった鉄道を次第に民間輸送へも開放するようになり、本数も日4往復へ増発された。そして総督府は続いて台湾縦貫鉄道の建設に取り掛かり、『既存の施設を抜本的に改修』したうえで、1908年(明治41年)4月に縦貫線の基隆 - 高雄間404.2kmを全通させるに至った。
なお、軽便鉄道規格の製糖鉄道や森林鉄道も旅客営業を実施し、最初の営業が新営庄(現新営)−塩水港(現塩水)間で始まったのを皮切りに、台湾西部を中心に路線網を築いていった。

中華民国時代
太平洋戦争(大東亜戦争)で1945年に日本が敗北すると、台湾は中華民国(南京国民政府)の統治下に入り、台湾総督府鉄道も中華民国当局によって接収され、台湾鉄路管理局に組織改編された。その後、国民政府は国共内戦の敗北で中国大陸を中国共産党に奪われ、1949年に中央政府を台湾へ移転せざるを得なくなった。
1980年2月に北廻線が完成して台東線と花蓮新駅(現 花蓮駅)で接続、1982年にはその台東線が1067mmに改軌されて北廻線との直通が実現し、更に1991年には南廻線が開通して「環島鉄路」(台湾一周鉄道)がようやく完成した。

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